今日は岡山空襲62年ー岡山空襲の前後①
(写真はねむの花ー真備歴史民俗資料館前にて)
1945年6月29日、午前2時43分から4時7分まで、1時間24分にわたる空襲でした。死者1,737人、負傷した人6,026人。焼失家屋25,032戸。市街地の焼失面積は7,690平方キロ(市街地の73%)。その中で最も激しく燃えたのが私の住んでいた弓之町でした。-岡山市史ー
私は1938年生まれですから、7歳のときでした。当時街角には「国防婦人会」のたすきをかけた婦人が「千人針」(一人が一針のふしを作って出征兵士の腹巻を作るふしが沢山あるので弾除けになると言われていました)への協力を求めて連日立つていました。その場所場所へ母は私を連れて行き、「この子は寅年です!」と誇らしげに言って歩きました。寅年生まれの人はそのふしを自分の年の数だけできるからです。寅は「千里行って千里かえる動物」と言われ出征兵士の生還の縁起を担ぎ戦時中はとても重宝がられました。私は母に連れられ毎日毎日千人針のふしを作って歩きました。(実際はふしは母が作りました)今思うに「国防婦人会の千人針」は思想動員の格好の材料でした。
鳩には、予知能力があるのか岡山空襲の1週間前ごろから、兄(旧岡工一年生)が屋根の上で飼っていた、伝書鳩が家に帰らなくなりました。空襲に備えてその頃より、鳩小屋の戸は開放していましたが、夕方になると必ず帰っていましたが。
旧制中学一年生だった兄(長兄)は、学校から農家の農作業に毎日出ていました。毎日兄が農家からもらって帰る弁当箱一杯の米の飯のおいしかったこと。次兄と一緒に長兄の帰りをいつも待ちわびていました。極度の食糧難でした。この頃から配給の代わりに各家庭には食券が配られるようになりました。「今日は肉?」と言うことでいそいそと食券を持って母と並びましたが、出てきたものは黒くて、固くて、臭みのある猫の肉でした。それでもありつけたらいい方でした。
大本よし子 | 聞いて きいて



